「人間は、無駄の中で育つ。」
本棚は、もう一つの脳だ
寄り道を、バカにするな。
いまの社会は、効率のいい人を褒める。無駄なく動く人を褒める。最短距離で答えにたどり着く人を賢いと言う。AIが出てきて、その流れはもっと強くなった。調べものは一瞬で終わる。文章も一瞬で出る。企画書も、挨拶文も、要約も、数秒でそれらしいものになる。
でも、僕は思う。
そんなに急いで、どこへ行くんだろう。
僕の職場には、本がたくさんある。小学校の頃から残っている本もある。古い雑誌もある。いまでは簡単に手に入らないものもある。人から見たら、古本屋みたいに見えるかもしれない。整理されていない、雑然とした棚に見えるかもしれない。
でも僕にとって、本棚は飾りじゃない。思い出でもない。
本棚は、もう一つの脳だ。
本は外部記憶装置だと思っている。僕の頭の中に全部を入れておく必要はない。必要なときに手を伸ばせばいい。昔の人が考えたこと、失敗したこと、試したこと、諦めたこと、工夫したことが、そこに残っている。
プラモデルも同じだ。
あれは、三次元の本だ。
何か新しいものを作るとき、過去に人類が作ったものを参考にするのが一番早い。模型は小さい。でも、そこには形がある。寸法がある。構造がある。なぜこの扉はここにあるのか。なぜこう開くのか。なぜこの角度なのか。なぜこの曲線なのか。僕が想像もしないような工夫が、そこに詰まっている。
つまり、僕の本棚やプラモデルは、趣味の残骸ではない。
僕が考えるための器官だ。
人間の知性は、頭の中だけにあるわけじゃない。手元に残してきたもの。捨てられなかったもの。何度も見返したもの。途中で作るのをやめたもの。無駄に見えるもの。そういうものの中にも、知性はある。
だから僕は、身軽になるために何でも捨てればいいとは思わない。
捨てた瞬間に、思考の足場も消えることがある。
寄り道したものだけが、あとで自分を助けることがある。
AIは、電子化された世界しか知らない
ある図書館で、古い本がたくさん残っているのを見たことがある。新しい図書館だったけれど、そこにはものすごく古い本があった。棚を見ながら、僕はふと思った。
これ、AIは知らないな。
AIは、電子化されたものには強い。検索できるもの、データになっているもの、誰かが入力したもの、誰かがすでに言葉にしたものには強い。でも、電子化されていないものは知らない。誰かの家の本棚に眠っている本を知らない。古い雑誌の片隅に載っていた図面を知らない。昔の模型に詰め込まれた工夫を知らない。人の身体に残っている失敗の感触を知らない。
そこを忘れると、人間は簡単に負ける。
AIが怖いんじゃない。
AIに知性を全部預けたつもりになる人間が怖い。
便利なものは使えばいい。僕は便利を否定したいわけじゃない。道具は、人間を助けるためにある。ただし、便利には二種類ある。
便利を使って、未知に挑む人がいる。
便利を使って、楽をするだけの人がいる。
前者は進化する。後者は堕落する。
AIを使って、もっと遠くへ行くならいい。自分だけでは調べきれないものを調べ、考える時間を増やし、問いを深くするならいい。でも、AIに出してもらった答えを、自分の答えだと思い込むようになったら危ない。自分の言葉で考えなくなる。違和感を放っておく。面倒なものを避ける。わからないまま通り過ぎる。
賢い人が増えたのではない。
賢いふりをする人が増えただけかもしれない。
人間が持っているものは、まだ全部データになっていない。むしろ大事なものほど、データになっていない。幼い頃に見た飛行機の美しさ。手を動かして失敗した悔しさ。誰かに助けてもらった記憶。古い本の匂い。プラモデルの扉を見て「なぜここにあるんだろう」と立ち止まる時間。
そういうものは、効率の外側にある。
でも、人間はそこで育つ。
正解を探す人は、新しいことができない
正解を探す人は、新しいことができない。
きつい言い方に聞こえるかもしれない。でも、僕はそう思っている。なぜなら、新しいことには、そもそも正解がないからだ。
僕らがやっていることには、誰もやったことがないものが多い。教科書がない。前例がない。先生もいない。専門家に聞いても、答えが返ってこないことがある。そういう場所では、全員が初心者だ。僕だってわからない。
だから、やるしかない。
ところが、知識を持っている人ほど動けなくなることがある。機械を学んだ人は「電気は専門外です」と言う。電気を学んだ人は「機械は自分の分野ではありません」と言う。技術を持っている人ほど、その技術から抜け出せないことがある。
もちろん専門性は大事だ。専門性を否定しているわけではない。でも、専門性が自分の檻になるときがある。
「できるかどうか」を考えすぎる人は、できない理由を見つけるのがうまくなる。
「どうやるんですか」と聞いて、とりあえず手を動かす人は進む。
誰もやっていないことをやるときに必要なのは、きれいな履歴書ではない。知らない場所に入っていく態度だ。恥をかけることだ。聞けることだ。直せることだ。最初から完璧にできない自分を許せることだ。
AIは、すでにある答えを探すのが得意だ。
でも、まだ答えがない場所で最初に手を動かすのは、人間だ。
正解を待っていたら、誰かが作った道しか歩けない。
新しいことは、間違えながら作るしかない。
だから、寄り道が必要になる。だから、失敗が必要になる。だから、無駄に見える時間が必要になる。
一直線に進んできた人だけでは、まだ誰も見たことのないものは作れない。
夢は、寄り道の名前だ
日本では、夢というとすぐに職業にされる。
パイロットになりたい。医者になりたい。社長になりたい。宇宙に関わる仕事をしたい。そう言えないと、夢がない人みたいに扱われる。
でも僕は、夢ってそんなものじゃないと思っている。
夢は、もっとぼやっとしていていい。
僕は飛行機が好きだった。職業として好きだったわけではない。ただ、美しいと思った。空を飛ぶものの曲線が好きだった。無駄がなくて、滑らかで、白鳥が飛んでいるみたいで、ずっと見ていたかった。
夢は、そういうところから始まっていい。
子どもたちには、カレーの話をする。カレーを食べたい。それだって夢でいい。もっとおいしいカレーを食べたい。じゃあ店に行けばいい。レトルトを買ってもいい。もっとおいしくしたいなら、スパイスを買ってきて作ればいい。作っているうちに誰かが喜ぶ。気づいたら有名になって、カレー屋になっているかもしれない。
最初から「カレー屋になりたい」と思っていなくても、そうなることはある。
夢は、最初から職業名にしなくていい。夢は、寄り道の名前だ。僕もまっすぐ来たわけじゃない。飛行機が好きだった。ロケットも好きだった。でも途中でバイクに寄り道した。車に寄り道した。いろんなものに寄り道した。その寄り道が、あとで全部くっついてくる。
無駄だと思っていたものが、ある日突然つながる。
途中でやめたものが、別の場所で役に立つ。
好きだっただけのものが、仕事の中で光り始める。
もし「一つに決めろ」と言われていたら、僕は壊れていたかもしれない。もし「頑張れ」と言われ続けていたら、頑張りすぎて折れていたかもしれない。
でも、ぼやっとした憧れを持ったまま寄り道できた。だから今がある。
夢がないと言う人がいる。
でも本当は、夢がないのではなく、夢を職業名に変換できないだけかもしれない。
その人の中にも、昔好きだったものがある。なぜか捨てられないものがある。説明できない憧れがある。途中でやめた何かがある。
それをバカにしないほうがいい。
そこに、未来の入り口があるかもしれない。
思いは、かなうんじゃない。招くんだ
「思いはかなう」と言う人がいる。
僕は少し違うと思っている。
思いは、かなうんじゃない。思いは、招くんだ。
ただ願っていれば、勝手に夢がやってくるわけじゃない。思うというのは、自分の主体的な行動だ。思い続けていると、世界の見え方が変わる。チャンスに気づくようになる。
同じ出来事が起きても、何も思っていない人にはただの偶然に見える。
でも、思いを持っている人には、それが入り口に見える。
あれかもしれない。ここかもしれない。今かもしれない。
そうやって、目の前の出来事が光って見える。招いたものをつかむかどうかは、自分次第だ。
だから、思いは具体的すぎなくてもいい。ぼやっとしていていい。大きな夢でなくてもいい。好きだな、きれいだな、なんか気になるな、もう少し知りたいな。その程度でいい。
むしろ、その程度の思いを大事にしたほうがいい。
今の社会は、すぐに計画を求める。目標を求める。成果を求める。何年後にどうなりたいのか、数字で出せと言う。でも、人間はそんなにきれいにできていない。最初は、ぼやっとしている。言葉にならない。人に説明できない。
説明できないものを持っていられるかどうか。それが、人間の強さかもしれない。
AIは、説明されたものを扱うのが得意だ。でも、まだ説明できない思いは扱えない。だから、急いで答えにしなくていい。急いで職業にしなくていい。急いで意味づけしなくていい。持っていればいい。思っていればいい。
その思いが、いつか何かを招く。
失敗は、AIに渡せない
実験をするとき、僕が一番大事にしていることがある。
死なないで帰ってこい。これだけだ。
何が起きても、それはデータだ。うまくいかなかったことには、うまくいかなかった理由がある。失敗は、得ようと思って得られるものではない。失敗しようと思ってする失敗なんてない。だから貴重だ。
ただし、人が死んだら直せない。それだけはだめだ。
子どもたちにも同じように話す。失敗しても大丈夫だ。人間が作ったものは、人間が直せる。壊れたら直せばいい。わからなかったら聞けばいい。困ったら助けを求めればいい。
失敗して困るのは、一人で解決できないからだ。だったら、一人で解決しなければいい。助けてもらった人は、助かり方を覚える。助かり方を覚えた人は、次に誰かを助けられる。失敗は、正しく乗り越えれば、人を助ける力になる。
これを知らないまま大人になると、失敗を隠すようになる。失敗した人を責めるようになる。失敗しないように、何もしないようになる。きれいに見えるけれど、何も生まれない。
何もしなければ、失敗はしない。でも、何もできるようにならない。AIは、過去のデータから学ぶ。人間は、自分の失敗から学ぶ。
この失敗の痛みは、AIには渡せない。悔しかったこと。恥ずかしかったこと。誰かに助けてもらったこと。次は自分が助けようと思ったこと。手が震えたこと。もう二度と同じことをしないと身体で覚えたこと。
それは、人間の中に残るデータだ。だから失敗を消してはいけない。
痛みをなかったことにしてはいけない。失敗は、無駄ではない。
未来の誰かを助けるための、まだ言葉になっていない知性だ。
教えすぎると、人は考えなくなる
ロケット教室で、僕は作り方を教えない。
説明書を読んでみな。
わからなかったら、周りを見てみな。
みんな同じことをやっているから、カンニングし放題だよ。
それでもわからなかったら聞いて。聞かれたら答えるから。
そう言う。
一番大事なのは、見て、聞いて、わかったことを見せ合うことだ。僕が全部教える必要はない。早くできる子がいる。時間がかかる子がいる。途中で間違える子がいる。助ける子がいる。助けられる子がいる。
すると、勝手に進んでいく。しかも、思っているよりずっと早い。
もし僕が「はい、一番をやりましょう。全員できましたか。では二番です」とやったら、時間がかかる。早い子は待たされる。遅い子は焦る。真ん中の子だけが、なんとなく進んでいるように見える。
学校の山登りみたいなものだ。足の速い子は先に行きたい。でも先生に「待って」と言われる。遅い子はずっとしんどい。やっと休めると思ったら「行くぞ」と言われる。幸せなのは真ん中だけかもしれない。でも真ん中の子だって、本当に幸せかはわからない。
全員を同じペースにすることが、教育ではない。それぞれが自分のペースで進めるように支えることが、教育なんだと思う。教えることは大事だ。でも、教えすぎると、人は考えなくなる。
「次に何をすればいいですか」
「言われたことをやります」
「早く指示してください」
そういう人は、学校では扱いやすいかもしれない。でも、仕事では困る。誰もやったことがないことをやるとき、指示を待っている人だけでは進まない。
人を助けるときも同じだ。最初に必要なのは、観察だ。
困っている人は、自分が何に困っているかわからないから困っている。だから、周りが観察するしかない。このままだとどうなるのかを予測する。そして、自分は何をするかを考える。
それが、人を助けることだ。
教えすぎる社会は、観察する人を減らす。命令に従う人を増やす。でも人間に必要なのは、指示待ちの能力ではない。
自分で見て、自分で考えて、自分で動く力だ。
我慢とは、「動くな」という命令だった
「我慢しなさい」という言葉がある。
一見、いい言葉に見える。耐えること。落ち着くこと。大人になること。そういうふうに聞こえる。
でも、よく考えると、我慢とは「何もしない」ことだ。
つらいことがあった。悔しいことがあった。嫌なことがあった。そのときに「我慢しなさい」と言われる。それはつまり、「動くな」と言われているのと同じだ。
言うな。変えるな。逃げるな。逆らうな。考えるな。
そうやってずっと我慢させられてきた人に、ある日突然「あなたは何をしたいの?」と聞く。これは、かなり残酷だと思う。
子どもたちは、ずっと命令されてきた。これをしなさい。あれをしてはいけません。静かにしなさい。ちゃんとしなさい。列に並びなさい。点数を取りなさい。
そのあとで急に、大学を自分で選びなさい。将来を決めなさい。夢を持ちなさいと言われる。
そんなの、戸惑うに決まっている。夢がない人が増えたのではない。夢を出すための動き方を、止められてきたのかもしれない。
しかも、やっと何かを言ってみると、「それで食べていけるの?」と聞かれる。「お前の成績じゃ無理だ」と言われる。「もっと現実的に考えなさい」と言われる。
だったら最初から、何を言えばいいのかわからなくなる。
過去の点数の範囲内で、未来を決めろと言われる。過去の結果で、未来の可能性を閉じられる。
そんな教育で、人は自由になれるだろうか。
僕は、自由とは好き勝手にすることではないと思っている。自分の自由を守るためには、他人の自由を守ることだ。人からこう言われたから、こうしろと言われたから、みんながそうしているから。それは自由ではない。
大事なのは、自分はこれからどうするのかを考えることだ。
我慢ばかりしていると、その問いが消える。
自分の中の声が聞こえなくなる。
だから、「我慢できるいい子」を褒めすぎないほうがいい。
その子は、動く力を失っているだけかもしれない。
会社は、未来の子どもに試される
僕の会社は、言ってみれば鉄工所だ。それなのに、なぜ教育に関わるのかと聞かれることがある。
教育は、福祉ではない。慈善事業でもない。子どもたちは、十年後のお客だ。十年後の同僚だ。二十年後の後継者だ。
製造業がどれだけいいものを作っても、それを「いい」と言える人がいなければ終わる。余計なことをしなくていいから安くしてよ、と言われたら終わる。面白いものを面白いと感じる人、まだ見たことのないものに価値を感じる人、失敗してもやってみようと思える人がいなければ、会社は続かない。だから企業は、教育から逃げられない。
採用してから育てればいい、では遅い。社会全体で、考える人を減らしてしまったら、会社も困る。指示を待つ人だけが増えても、新しいものは生まれない。
いまの子どもたちに何を残すかは、会社の未来そのものだ。
十年なんてすぐに経つ。いま小学生だった子が、すぐにお客になる。同僚になる。場合によっては会社を継ぐ人になる。そのとき、考える力を持っているか。失敗を恐れず動けるか。いいものをいいと言えるか。自分の自由と他人の自由を守れるか。
それを社会が育てていなかったら、会社は困る。
会社だけではなく、社会が困る。
学校だけが教育を担う時代ではない。家庭だけでもない。企業も、大人も、地域も、全員が関係している。
ただし、教育とは夢を与えることではない。奪わないことだ。
出会いを用意する。失敗しても死なないように支える。自分で考える余白を残す。寄り道をバカにしない。好きだったものを捨てさせない。
それが、未来への投資だと思う。
人間が負けるのは、考えるのをやめたときだ
AIが進化していくことは止められない。止める必要もないと思う。
便利なものは使えばいい。道具は使えばいい。AIも使えばいい。ただし、何のために使うのかを間違えないことだ。便利を使って、未知に挑むのか。便利を使って、楽をするだけなのか。その違いは大きい。
AIが文章を書いてくれる。でも、自分が何を言いたいのかを考えなくなったら終わりだ。
AIが答えを出してくれる。でも、自分で問いを立てなくなったら終わりだ。
AIが要約してくれる。でも、遠回りして読む時間を全部なくしたら、そこにあった偶然の出会いまで消えてしまう。
人間は、無駄の中で育つ。寄り道の中でつながる。失敗の中で覚える。好きだったものを捨てずに持っていることで、いつかチャンスに気づく。
本棚は、ただの本棚ではない。プラモデルは、ただのおもちゃではない。
失敗は、ただの失敗ではない。寄り道は、ただの遠回りではない。途中でやめた夢も、まだ終わっていない。
それらは全部、人間がまだAIに渡していない知性だ。
効率化は悪くない。でも、効率化だけで生きると、人間は痩せていく。
無駄がなくなる。迷いがなくなる。寄り道がなくなる。失敗がなくなる。好きだったものを持ち続ける余裕がなくなる。すると、人はきれいになるかもしれない。でも、薄くなる。
人間がAIに負けるのは、AIが賢くなったときではない。人間が考えるのをやめたときだ。
だから、寄り道をバカにするな。
古い本でもいい。作りかけのプラモデルでもいい。昔好きだった漫画でもいい。途中でやめた夢でもいい。なぜか気になっているものでもいい。誰にも説明できない違和感でもいい。
それを持っている人は、まだ考えられる。それを捨てない人は、まだ招ける。
それを恥ずかしがらない人は、まだ新しいものを作れる。
AIは、正解を出せる。でも、寄り道を知らない。人間は、無駄の中で育つ。
そして、その無駄の中にこそ、まだ未来が眠っている。