昭和100年史SHOWA 100 ARCHIVE

「黙った瞬間、その場の流れに一票を入れている。」

空気を読んで、何を失ったのか

黙ることは、何もしないことではない。黙った瞬間、その場の流れに一票を入れている。ぼくはそう思う。会議でも、教室でも、家庭でも、地域でも、みんな少しは気づいている。これはおかしい。けれど、口に出す人は少ない。言えば面倒になる。空気が悪くなる。自分だけが悪者になる。だから、わかった顔をして座っている。そして何事もなかったように、物事だけが先へ進んでいく。

ぼくは、波を立てたいわけじゃない。誰かを論破したいわけでもない。ただ、みんなが本当は引っかかっていることを、なぜ誰も言わないのかと思う。納得しているなら、それでいい。けれど、納得していないのに「まあいいか」で進むなら、それは危ない。小さな沈黙は、その場を丸くするかもしれない。でも、その沈黙が積み重なった先で、人は自分の考えを失っていく。おかしいと感じたことを飲み込む癖がつく。やがて、自分が何に怒っていたのか、何を大事にしたかったのかさえわからなくなる。

だからぼくは聞きたい。わかっているなら、なぜ言わないんだ、と。

「暫定」という名の戦後

暫定という名前のまま何十年も続いているものは、もう暫定ではない。ぼくが気持ち悪いと思うのは、税金そのものの高い低いだけではない。必要なものなら、必要だと言えばいい。「道路を直すために必要です」「社会を維持するために必要です」。そう正面から言えばいい。それなのに、「暫定」という名前だけを残したまま、いつの間にか当たり前の顔をして続いていく。そこにごまかしがある。言葉が現実に追いついていないのに、誰もそこを直そうとしない。

世の中には、そういうものがいくらでもある。昔からそうだから。前から決まっているから。みんなそうしているから。そういう言葉で続いているルールや空気や人間関係がある。最初は仮のものだったはずなのに、いつの間にか本物のように居座っている。必要なら必要だと言う。変えるなら変えると言う。間違っていたなら間違っていたと言う。たったそれだけのことが、なぜできないのか。

ぼくは反対したいのではない。名前を正しくしてほしいだけだ。ごまかした名前で人を納得させようとするから、気持ち悪いのだ。納得とは、きれいな説明で丸め込まれることではない。事実を事実として見せられ、そのうえで「ではどうするか」を一緒に考えることだ。

問いを嫌う社会

この社会では、反対する人より、理由を聞く人のほうが嫌われることがある。決まったことに従わないからではない。みんなが流そうとしているところで、「それはどうしてですか」と聞くからだ。ぼくは押し切りたいわけではない。ちゃんと理由を聞いて、なるほどと思えば、進めばいいと思っている。ただ、理由を聞かないまま進むことができない。そこが面倒くさいと言われる。

「理屈っぽい」という言葉は、便利だ。相手の問いに答えなくても、その人の性格の問題にできる。理由を求める人を、場を乱す人に変えられる。けれど、本当に波を立てているのは誰なのか。聞いた人間なのか。それとも、みんなが納得していないことを知りながら、終わらせようとする場のほうなのか。

ぼくは、そこをすり替えたくない。理屈とは、本来、人と人が納得するための道具だ。相手を殴るためのものではない。だから、本音を言ってほしい。違うなら違うと言ってほしい。ぼくの考えがおかしいなら、どこがおかしいのか言ってほしい。そこで初めて、話は前へ進む。理由を聞くことを嫌がる社会は、話し合いをしているようで、本当は話し合いを避けている。

「嫌だ」と言えない子どもたち

いじめる子どもより、嫌だと言わない空気のほうが、ぼくには怖かった。幼稚園にいた乱暴な子が嫌だった、というだけの話ではない。けれど、ぼくがもっと引っかかったのは、されている子どもたちがそのままになっていることだった。どうして嫌だと言わないのか。どうして怒らないのか。怖いのか。我慢しているのか。それとも、嫌だという反応そのものが出てこないのか。ぼくにはそれがわからなかった。

誤解してはいけないのは、弱い子を責めているわけではないということだ。子どもには言えないことがある。怖くて固まることもある。何をされたのかすら、その場でうまく理解できないこともある。けれど、だからこそ、その場所全体が気持ち悪かった。乱暴な子がいる。やられる子がいる。周りは流す。みんなはまた同じ場所に戻っていく。集団生活が嫌だったのではない。人が集まった場所で、嫌なことが嫌なこととして扱われない感じが嫌だったのだ。

あのときから、たぶんぼくは同じことを見ている。大人になっても、場所が変わっても、人は「嫌だ」と言わないまま進んでいく。そして、言わないことに慣れた場所では、いつの間にか嫌なことのほうが普通になる。

集団生活は、何を教えたのか

先生の話を聞くことより、みんなと同じように騒ぐことのほうが自然に見える場所がある。ぼくには、それが不思議だった。小学校に入ってすぐの頃、教壇に立った先生が何かを話そうとしているのに、教室は騒がしかった。誰も悪気があるわけではない。ただ、先生が話そうとしているのに、聞こうとしない。ぼくはそれがわからなかった。

先生は、自分たちに何かを伝えようとしている。だったら聞けばいい。聞いたうえで、つまらないならつまらないと言えばいい。でも、聞く前から騒いでいる。そこに、ぼくは我慢ができなかった。「静かに!」と言ったぼくのほうが、たぶん変な子だったのだと思う。

幼稚園で集団行動を習ってきたはずの子どもたちが、本当に人の話を聞く場面では聞いていない。では、あの集団行動とは何だったのか。みんなと同じ動きをする訓練だったのか。合図で集まる練習だったのか。もしそうなら、それは人の話を聞く力とは違う。人は、型にはまっているように見えても、考える力までは育っていないことがある。ぼくが怖かったのは、そこだった。

終戦後、急に正しくなる人々

終わってから正しくなる人は多い。けれど、本当に大事なのは、始まる前に考えることだ。戦争の話を聞くたびに、ぼくはそこに引っかかっていた。誰か一人を責めたいわけではない。時代には流れがある。人はその流れに乗る。家族を守るため、生活を守るため、その時代の空気を信じることもある。だから、戦時中にそのなかで自分の役割を果たした人を、後から簡単に裁く気にはなれない。

ただ、終わった途端に態度が変わることには、どうしても気持ち悪さが残る。昨日まで一目置いていた相手を、時代が変わった瞬間に距離を置く。みんなが反省する。みんなが正しい側に立つ。だったら、どうして始まる前に考えなかったのか。どうしてそのときは、自分の頭で疑わなかったのか。

もちろん、人間はそんなに強くない。今の人が流されやすいわけでもない。昔の人も、ご近所の噂話に流された。村の空気に従った。会社の空気に合わせた。道具が変わっただけで、人間の弱さは変わっていない。だからこそ、ぼくは「昔のほうがましだった」とは言わない。人はいつの時代も流される。だから、自分はいま何に乗せられているのかを見たほうがいい。終わってから反省することはできる。でも、その反省は、始まる前に考える力にならなければ、また同じことを繰り返す。

「迷惑」という免罪符

「迷惑」という言葉は、便利すぎる。言った瞬間に、話し合いを終わらせる力がある。よそさまに迷惑だから。みんなの迷惑になるから。そう言われると、人は黙る。自分がわがままなのかもしれないと思う。場を乱しているのかもしれないと思う。けれど、ぼくはそこで一度立ち止まりたい。それは本当に迷惑なのか。誰にとって、どんな迷惑なのか。結果的に、お互いにとっていいことはないのか。

ぼくだって、人に迷惑をかけるのは嫌いだ。迷惑をかけて平気でいる人を肯定したいわけではない。問題は、「迷惑」という言葉を出した瞬間に、考えることをやめてしまうことだ。誰かが違う意見を言う。誰かが別の行動をする。そのとき、本当に困っている人がいるのか、それともただ空気が乱れただけなのか。そこを確かめないまま、迷惑で片づけてしまう。

社会は、わかりやすい言葉で人を整える。「常識」「空気」「協調性」「迷惑」。どれも必要な言葉ではある。でも、必要な言葉ほど、乱暴に使うと人を黙らせる。納得する前に従わせる。ぼくが嫌なのは、そこだ。「迷惑をかけるな」で終わらせるのではなく、それが本当に迷惑なのかを確かめる。その手間を惜しんだ場所では、やがて誰も本音を言わなくなる。

待つことを失った時代

待つ時間は、相手のことをいちばん考えている時間だった。待ち合わせ場所で一時間待つ。今なら、すぐにスマホで連絡を取ればいい。それで済む。便利だし、間違いなく助かる。けれど、連絡が取れなかった時代の一時間には、別の濃さがあった。

どうして来ないんだろう。何かあったのか。場所を間違えたのか。怒っているのか。忘れたのか。そう考えているあいだ、相手はずっと自分の心のなかにいる。いい感情ばかりではない。不安もある。苛立ちもある。寂しさもある。でも、その全部を含めて、人を心にためていたのだと思う。相手がやっと現れたときの安堵や怒りや嬉しさは、その一時間があったから深くなる。

便利さは悪ではない。連絡が取れないことで傷ついた人もいただろうし、不便が美しいわけでもない。ただ、便利になることで、相手を考える時間が薄くなったことは確かだと思う。「どうしたの」という問いも、「ごめん」という答えも、短く済む。顔を見ないまま終わる。人と人の距離は近くなったようで、心にたまる量は減っているのかもしれない。だからぼくは、待つという不便のなかにあった、人を思う濃さを忘れたくない。

感動を消費する時代

感動という言葉は、他人の人生にただ乗りするときにも使えてしまう。スポーツを見て、すごいと思う。胸が熱くなる。それは自然なことだ。けれど、それをすぐに「感動した」「ありがとう」と言ってしまうところに、ぼくは少し引っかかる。だって、その勝利のために汗をかいたのはぼくではない。苦しい練習をしたのもぼくではない。他人の勝利は、ぼくの達成感ではないのだ。

本当の感動は、もっと小さくて、もっと自分の体に近いところから出てくると思う。子どもが自分で布団を畳めるようになる。補助輪なしで自転車に乗れるようになる。昨日までできなかったことが、今日できるようになる。その瞬間、人は少しだけ自分を信じられる。その手応えが、次に生きる力になる。大きな試合を見て泣くことより、誰にも見られていない場所で小さく何かを達成することのほうが、人を深く変えることがある。

もちろん、物語や映画やスポーツに心を動かされることはある。人の努力を見て、自分も頑張ろうと思うこともある。だから、他人の感動を全部否定したいわけではない。ただ、自分のなかから湧いたものと、外から借りてきたものを混ぜてはいけない。借り物の感動ばかり浴びていると、自分の人生で何を達成したいのかが薄くなる。小さなことでいい。自分でやって、自分で届いたという感覚を持ったほうがいい。その感覚だけが、自分の人生を前に進める燃料になる。

想像力まで商品になった

想像力を育てたいと言いながら、大人は子どもに完成品を渡しすぎている。昔の遊びが偉かったと言いたいわけではない。ただ、ないものをないまま終わらせず、あるものを別のものに見立てる力は確かにあった。棒を持てば刀になった。布を首に巻けばマントになり、顔に巻けば忍者になった。危ないこともあったし、今なら怒られることも多いだろう。でも、その手つきのなかに、頭のなかの夢を少しずつ形に近づける喜びがあった。

今は、欲しいものが先に並んでいる。物語のなかで新しいアイテムが出る前から、店にはそのおもちゃが置かれている。画面のなかで「想像力」と言いながら、現実では答えが先に売られている。子どもに想像してほしいと言いながら、大人は想像する前の余白を奪っている。こうなったらいいな、これで代わりにならないかな。そうやって何度も試す時間こそ、想像力の本体だったのではないか。

便利になったことを悪く言うのは簡単だ。でも、問題は便利さそのものではない。何もない場所に何かを見る力を、どこで育てるのかということだ。AIも機械も、きれいなものをいくらでも作るようになる。だからこそ、人間は何を手放してはいけないのかを考えたほうがいい。答えを受け取るだけの人間になるのか。足りないものを前にして、それでも自分で形にしようとするのか。想像力とは、与えられたアイテムの名前ではない。ないものを前にして、まだ遊ぼうとする力のことだ。

昭和を語るなら、令和を見ろ

正しいことは、正しいだけでは届かない。相手のいる時代、相手の置かれている条件、相手が何に苦しんでいるかを見ないまま言葉を投げれば、どんなに大切な話でもただの小言になる。昔のほうが良かった、今の人は弱くなった、便利になって心が貧しくなった。そういう言い方は簡単だ。けれど、そんな切り口では何も解決しない。だいたい、昔が良かったわけではない。人は良くなりたいと思ったから、暮らしを変えてきた。今を否定するだけなら、それはただ自分の時代を守っているだけだ。

本当に伝えたいことがあるなら、まず相手を知らなければならない。今の人がなぜ急ぐのか。なぜ人の目を気にするのか。なぜ承認を求めるのか。なぜ失敗を怖がるのか。その条件を見ないで、「もっと考えろ」「もっと我慢しろ」「昔はこうだった」と言っても、届くはずがない。言っている側は助言のつもりでも、受け取る側にはうるさい声にしか聞こえない。

だから、最後に残したいのは結論ではない。問いだ。納得しないまま進んでいないか。自分の違和感を、空気に合わせて捨てていないか。他人の感動を借りて、自分の小さな達成を忘れていないか。便利さのなかで、相手を考える時間を失っていないか。ぼくが言えるのは、昔に戻れということではない。今を生きる人が、今の条件のなかで、自分の頭と心をもう一度使うことだ。大切な話なら、小言にしてはいけない。相手に届く問いとして渡さなければならない。